今一般的に「自然」と言う時、私達は様々なイメージを思い浮かべます。草木や岩石や山川や海、又景色などの物的な対象世界を先ずイメージすることが多いと思います。私達の古い先祖ならば、測り難い不可思議なものとして捉えたであろう各々の自然や現象は(そもそも古くは、自然一般という捉え方は無かったと思います。) 、現代、明治期以来徐々に定着した西欧的自然観によって捉えられる場合がほとんどでしょう。
西欧近代の自然、殊に自然科学の自然は計ることができ操作することができる対象物の世界です。命ある生物も、解剖したり行動を計測してその要素は対象物として扱われます。そうしなければ科学は成り立ちません(自然から離れなければ観察できません)し、科学技術の恩恵を受けてきた今の私達もいないことになります。日本の自然も勿論、物的世界のレベルが主要部分を占めるに違いありません。木も岩も海も山も物であることに変わりありません。ただし「物」という言葉自体に日本独特の使い方、捉え方があるようです。言葉は私達の心的生活ひいては世界観の基礎ですので、日本語の「物」がどのようなものかを見てみます。
広辞苑に当たってみますと、「物」には、おそよ次のような意味があります。
まず名詞としては、一般に何らかの存在や対象、知覚しうる事物、物体的物質的なもの、漠然と一般的なもの(こと、事柄、物事、世間一般の事柄、言葉、「あやしきもの」の意、言わなくてもわかる物事を漠然と表す、心に思っているもの)、普通、当然の意ー「親の言うことは聞くもの」。わけ、道理の意ー「人情はそんなものじゃない」。感嘆の意ー「とんだことを言うものだ」。おおよそ、ほぼの意ー「ものの三年」。希望の意ー「知りたいものだ」。
次に接頭語として、語頭に添えて「なにとはなしにそうであるの」意ー「もの静か、もの悲しい」等。
およそ以上の様です。いかに日本語の「物」が対象物以外にも、漠然としたもの等、境界の曖昧な広い領域で使われているかがわかります。
「物」が付いた言葉を挙げてみます。尚括弧中は物がどんな意味で使われているかを私なりに記してみました。
物心(物事)、物思い(物事)、物の気・物の怪(あやしきもの)、物好き(物事)、物入り(金銭)、物覚え(物事)、物種(物)、物臭(物事)、物の数(物)、物分かり(物事)、物詣で(社寺)、物別れ(言葉?)、物言い(言葉)、物忌み(物事)、物狂い(あやしきもの)、物々しい(立派な物?)、物珍しい(物事)、物憂い(何となく)、物静か(何となく)、物悲しい(何となく)、物淋しい(何となく)、物狂おし(あやしきもの)、物のあはれ(物事)、物を言う(言葉)、物にする(物)、物になる(物事)、物が憑く(あやしきもの)・・・等々まだまだ有ります。「物」は、物事として理解できる「物」、何となくの意味を担う「物」、又言わなくてもわかる物事やあやしきものとしての「物」、色々です。中でも漠然と物事を意味する場合がとても多いようです。
日本語の「物」は、多くの場合「物事」として捉えられます。そして、「物」は私達の行為や心、情緒等に結びついて、行為や感情を間接的に広げた意味にするように思います。「思い」は何かについて直接思っていること、また「思い」は凝らせますが、「物思い」は憂いや案ずることまで意味を広げつつ、思いに関しては少々焦点は曖昧にぼやけて間接的になり、凝らすことは出来ません。「悲しい」は輪郭ある直接的な感情ですが、「物悲しい」は漠然と広がりのある間接的な感情になります。この例ですと、物がつくと明晰な自我からは離れて、断定調から曖昧調になるようです。
また例えば、物心とは「物事に関する知恵、人情などを知る心」のことで、物事と心が共に合わさって独特の意味を成しています。また、物の気は「死霊や生霊、邪気や霊気」のことですが、霊や気が何らかの物に物憑き(ものつき)して、つまり合体して生じる怪しい気であるとも考えられ、第六感まで働かせて感じるものです。これだけ多くの合体例を見ますと、日本人にとって、「物」と人の間には固い壁が無く、心が物に入って行き易い、或いは私達の心は様々な物事に同化し易いということも示しているのではと思えます。。心と物、人と物が結びつき易い、<心-物>或いは<人-物>複合体が出来やすいと言えます。これは私達の自我の特徴なのかもしれません。単純な連想をすれば、アニメのロボットは実に日本的な感覚による発明ではないでしょうか。アトムから、正義の青少年が操る合体ロボットまで、<心-物>複合体が多くの男児に、強さと人のあるべき心を伝えています。因みに、神道では、人は霊(みたま)が身体という物に入っているから生きていると考えます。霊と体の複合体が人ということです。
「「もののあはれは秋こそまされ」とは人ごとに言うめれど・・・・」、徒然草の有名な一節です。「物のあはれ」とは「しみじみとした情趣」のことです。ここでも次のように理解できそうです。まず心が物事に入り込む。そして、<心-物>複合体から生じるしみじみとした情趣が「物のあはれ」(面倒な言い方ですが)ということでしょう。尚、兼好法師は日本的情趣の定型化を試みているようでもあります。それは日本中世のものではありますが、現代の私達にもよく理解できる、ということは今西欧的な自然観に覆われているように見えても、私達の自然観の深層には昔からの地下水脈が流れているということかもしれません。
「物」の世界に限って見ても、日本では、物体或いは対象物の世界には限られず、多くの場合「物」は心や行為と一緒に捉えられて、或いは心や行為が入り込むことで、初めて意味を与えられているようです。言わば、「物」はそれのみでは漠然と漂っているだけになってしまうのでしょう。 私達にとって「物」は非常に重要です。それは私達の割り切れない曖昧で微妙な心を、そのまま表すために、無くてはならない「物」と言えるでしょう。伝統的な和歌も、様々な自然或いは物に事寄せて(事を委ねて、かこつけて)、詠み人の心を表してきました。日本の自然も詠み人の心と結びついた時、歌の心を表すことができます。言い換えれば、日本の「物」や「自然」は、心を表すために事を委ねられた大切なメディアでもあります。また逆に、心を委ね得る「物」や「自然」の性質によって私達の心もその性質を帯びるのかもしれませんし、心と物の結ばれ方にこそ、私達の自然観が表れているのかもしれません。万葉集から二首選びます。
梅の花 降りおほふ雪を 包みもち 君に見せむと 取れば消につつ
あしひきの 山の嵐は 吹かねども 君なきよひは かねて寒しも
以上、自然との関連で、自然は一面で物によって成り立っていることから、物について一応見ておこうと思ったのですが、「物」なる言葉の世界は奥深く、あらぬ方向に進んでしまいました。軌道修正したいと存じます。ただ、観察とは対照的なことに、自然に結ばれなければ、そこに入り込まなければ、私達にとっての自然の意味はわかりませんし、私達の心は表せないということでしょう。