古事記本文冒頭には、混沌の世界が初めて天と地に分かれた時天上世界に最初の神が成ったことが記されます。私達の神話では、天と地の世界は創造神によるものではないことがわかります。この天上世界と地上世界を合わせて広い意味での大自然と呼ぶならば、大自然が出現して初めて神が現れたと読めます。
さらにその後に成った、いざなぎ・いざなみの夫婦神により、この国の自然(列島)が生み成されます。今度は神から自然が生まれた状況です。それ以降いざなぎ・いざなみ二神により住居を司る神々、岩土の神、風の神、海の神、水の神、・・・様々な神々が生まれます。そして水の神の男女二神は川と海の水の状態を表す神々や水の分配に関わる神々を生みます。自然の細部に至るまでを司る多くの神々が生まれます。
ここで例えば、山の神が山を生成したわけではなく、列島の山を司る神として山の神が生み成されたと捉えるのが自然と思いますが、山の神の命名と共に山が具象化され命を吹き込まれるとも考えられます。このように、いざなぎ・いざなみの二神によりこの列島(大八島)の自然が生み成され、その一つ一つの自然に命を吹き込むように多くの神々が生み成されていきます。従ってこの国土やあらゆる自然は神性、霊性を帯びていると言えるでしょう。
まず天地が現れ、神が成る。次に夫婦神が国土自然を生み、その自然を司る神々が生まれる。いざなぎ・いざなみ夫婦神による生成で、まず国生みがあって、次に神生みが成される順序は、大自然が現れてから最初の神が現れるのと同じ順序です。自然という土壌が無ければ神は現れることができないようです。日本ではやはり神は自然に宿るものなのでしょう。
自然と神との強い結びつきは当初から当然のことと考えられています。この国土のあらゆる自然も、自然を司る多くの神々も共に、いざなぎ・いざなみ夫婦神から生まれた子ども、兄弟、またその孫であり、一大家族を構成していることになります。最初から、自然と神々は血の繋がった兄弟なのです。
いざなみは火の神を生んだとき火傷を負ったことで亡くなり、黄泉の国に行かれます。いざなぎは連れ戻そうと黄泉の国を訪ねますが、結局妻の死姿に触れて逃げ帰ろうとします。ところが悪霊や妻自身にも追われ、逃走の長い道のりの最後に、大岩で坂道を塞ぎます。その岩を道返之大神(ちがえしのおおかみ)と名付けています。石に特別の神性を見てのことかも知れませんが、岩即大神なのです。これは自然即ち神の例です。
またいざなぎが、いざなみの黄泉の国で触れてしまった死の穢れを払おうと裸になってミソギをされる時、身につけていた物から多くの神々が生まれますし、天照大御神と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(うけい)の場面でも、お互いの身につけていた剣や勾玉を物種として神々が生まれます。物から神が生まれる例ですが、その物は神々の霊性を強く帯びた特別な物と考えられます。
霊性を帯びた物から神々が生まれる、ということは、いざなぎ・いざなみの二神が生み成したこの国土の自然も神の霊性を帯びていると考えられますので、私達の自然は常に神を生み成す可能性を持っていることになります。そして古代の先祖達にとって、あらゆる自然や物は常に神霊との複合体だったと思われます。
尚、人は神から生まれたのかどうかについては、直接記されてはいないようですが、「・・の神は・・の国造(くにのみやつこ)の祖である。」等のことばが散見されます。国造とは古代の地方長官で勿論人です。ということは、人も神の子孫であると考えられています。このような考え方からすれば、人が神になることも不思議ではありません。(当神社の御祭神、菅原道真公が好例です。) 古事記の考え方からすれば、神と人も、人と石も、神霊を帯びた同族の存在ということになります。