穏やかな正月が迎えられて有り難く存じます。世界各国についての報道を見聞きすれば、これが当たり前のことではなくとても幸いなことであることがわかります。民族間の、或いは宗教間の過酷な争いが絶えません。それぞれの正義があり、それを他にも押し通そうとするのですから当然争いが起こります。
親日家で日本文化や日本の国民性に讃辞を惜しまなかったアインシュタインが大正11年に来日した時の言葉が残されています。「もっとも気のついたことは、日本人は欧米人に対してとくに遠慮深いということです。」当時の日本人は一般的にそうだったのでしょう。今は少し違うのではとも感じますが、心の深い部分では相変わらずと思えます。
この遠慮深さ、慎み深さは何処から来ているのでしょうか。たぶん、私達の存在が他に支えられている、他から恩恵を受けて初めて成り立っていることを心底に感じているということなのだと思います。その「他」の世界にはもちろんこの生を支えている死(亡くなった方々)も含まれているわけですから、この世界の根底の不可思議さを認めることでもあるでしょう。
私達の文化を歴史的に辿ればその源の不可思議の層に八百万の神々が位置しています。しかしこのような歴史はどの民族どの国にもあるものに違いありません。ただ、この歴史的源流の層を古層、現代の合理的思考を新層と言えば、私達の文化の特徴は古層と新層が矛盾せずに共存していることだと思えます。ですから先端科学が神々に祈願することも不思議ではなく日常的なことです。
言語や記号による合理的思考(科学的思考)は私達の生世界にとって必要不可欠ではありますが、それだけで世界が成り立っているわけではありません。また、我思うの我は、それだけでは成り立たず、共時的には他との又世界との関係によって成り立たせてもらっている我ですし、経時的には先祖から命を受け継ぎ、親や社会に育まれて成り立たせてもらってきた我です。我が在るのは、世界の御蔭、社会の御蔭、先祖の御蔭、又その基底の不可思議の御蔭、その源の神々の御蔭としか言いようがありません。
「神恩感謝」、つまり神々の恩恵に感謝することは、私達にとってはとても自然なことです。それは神様を祭る最も大きな理由、祭りの原動力です。それがあるからこそ祭が興り、信仰が生まれ、神社ができたのです。朝に神々の恩恵を仰ぎ、夕には感謝のお祈りをして、清々しく穏やかな毎日を送りたいものです。