(15) 不思議をめぐって
人魂の体験
今から六十年余り前、私が小学校五、六年の頃、ひとだまらしきものを見たのです。あの光景は私の記憶に焼き付いています。
私の役目は夕方風呂を沸かすことでした。当時の風呂は五右衛門風呂という鉄の風呂でした。実際に入る処はタイルで覆われていましたが、鉄が露出した風呂底に外からの空洞があり、そこに薪を入れ、燃やして熱するものでした。薪をくべるところは二段低くなっていて子供にも狭い場所でした。ある夏の夕方まだ明るい中そこで薪をくべているとき、ふっと土手の方を見ると地上二メートルほどの所に変な明りが浮いていたのです。青白くぼーっと燃えるもの、大きさは二、三十センチほどだったと思います。土手は家の北側、木々や竹林で背景がやや薄暗くなっていましたし、また当時は眼も良かったので、もやもやと燃える透明な青白い美しい炎はかなり鮮明に見えていました。縁取りははっきりせずほぼ丸い形で、その上には淡く短い尾のような炎も揺れていました。そして徐々に土手の方に消えていきました。十数秒ほどのことだったと思います。
驚くとか怖いとかではなく、何だろうとただぼーっと見ていました。その時はなぜか家族にも話さず、そのまま時が経っていったようです。こんなことはうまく話せないし誰も信じないはず、と感じていたのでしょうか。実際話しても、皆忙しくて「ほー」という応えだったろうと思います。この体験の不思議さを強く意識したのは何年か後のことでした。それが「ひとだま」と言われるものに違いないこともわかっていましたが、人魂は死体の腐敗で蒸散した燐化水素が何らかの影響で発火したもの、などという説があることを知ったのはずっと後、大人になってからのことでした。
狐火の体験
もう一つの体験も鮮明な記憶となっています。学生の頃山歩きの楽しさを覚えた私は、ひと月に二、三回近郊の山を歩きました。ある冬の日に、奥多摩の雲取山から七ツ石山を歩き、下りの七ツ石尾根の雪上で予定のテント泊をしました。平地がなくやや傾斜した木々の間にツェルトを張って寝込みました。夜中寒さで目が覚め、シュラフから外にでて用を足して、向こうの遠くやや高い尾根の方を見ますと、真っ黒な尾根上に、何やら橙色より朱色に近い小さな明りが見えました。登山者のヘッドライトかとも思いましたがスケール的にそれはないと思いますし、立地からして尾根の向こうからの車のライトでもあり得ません。そしてその明りが十以上いくつにもなって並んだのです。そしてゆっくりと尾根に添って右に左に列が移動していました。その数も多くなったり少なくなったり。暫し見つめていましたが、ぞっとしてすぐツェルトに戻って寒さに震えながらも寝てしまいました。あの時は寒さではっきり目は覚めていましたので幻覚ではなかったと思います。一人でなかったら、それを共有できたはずです。
しばらく経ってから、あの明りが何だったのかいろいろ調べたり、様々な可能性を思い巡らせましたが、狐火と呼ばれるものであろうこと以外、未だによく分りません。狐火は広辞苑には「暗夜、山野に見える怪火。鬼火、燐火などの類。」とあります。類型の言葉があるということは、多くの人々がそれを体験してきたわけですので、何かひと安心するのです。
以上私の体験した不思議な明りは一まとめに怪火と呼ばれるものとのこと。多くはないのでしょうが昔から同様の現象を見た人も少なくないようです。各地に独特の怪火の伝説が残されてもいます。伝説によっては、怪火を見るのが不吉なことの前兆になっていたりもします。私の場合、とりたてて悪いことも、(良いことも)起きなかったと記憶しています。また一部の怪火は物理現象として説明されていますが、因果の図式が未だ分らない現象も多いようです。
眼の手術中に見たもの
十数年前、左目で見える景色の半分以上が真っ黒になり、発症から一週間後の元旦夜(外は雪でした)、網膜剥離で入院し手術を受けました。眼球裏への超痛い麻酔注射の後、開けた眼球の小穴から硝子体という内容物を器機で抜きとっていた時のことです。様々な色をした長い直方体のガラスの破片のようなものが水平にびっしりと重なり合って眼前に並び、キラキラ輝きながら、波状になることなく定規で描いたように直線的に流れていたのです。言葉ではうまく表現できません。
剝れた網膜は像を結ばないので、まだ剝れてなかった一部の網膜に、抜かれる際の硝子体の動きが映って脳に届いたのでしょうか。それとも夢と同様に実対象も無く、眠っていないにもかかわらず脳が勝手に見た幻覚でしょうか。宣告されていた手術の長さが、その余りに美しい光景に驚きながら見とれていたため、短く感じる程でした。二回の麻酔で痛さはないのでもっと見ていたいとも思いました。手術後のきつい養生(常に、食べる時も眠る時も下を向いていなければならないのです)も、あの奇跡的な光景に比べれば何でもなく思ったほどです。これも私には大きな謎体験なのでした。手術で出たカスのようなものを硝子体から取り除く二度目の手術では、残念ながら見ることはかないませんでした。
体験と経験
誰もが何かを見聞きしたり何かと出会ったりを、その人の感受性で常に体験しています。生きることは体験の連続と言えるかもしれません。私達が現象する世界を感受する仕方は個々様々です。感受の体験を事実と言うなら事実は人々の体験の数、無限にあるものでしょう。けれどもほとんどの体験には、それがうまく収まる既知の枠、言葉が対応しています。リンゴを見れば「りんご」という言葉が脳裏に現れますし、初めて見る果物らしきものでも「くだもの」という類型の言葉が思い浮かびます。何かを見聞きするとき、個々様々な体験を、言葉が人と共有できるように収束してくれます。この、皆に共有可能になった体験を経験と言えば、経験は皆に役に立つ、役に立たなくても皆に通用するものになります。
しかし体験した現象がどんな言葉にも当てはまらない場合、体験したその現象は?のままです。それを後々でも既知の言葉に当てはめることができれば、あれは不思議に思えたけれど実は・・だったのだと、皆に言葉で説明し共有の経験となるわけですが、その分類枠となる言葉が見当たらず、つまり自分にも理解不能で不可思議な体験のまま残ることもあるのです。私が眼の手術中に感覚した光景は、言葉を費やして説明しようとしても伝わらないと思えますので、人と共有可能な経験にはなりません。体験した現象を、すべて言葉で説明し経験化できるとは限らないと思えます。
考えてみますと、私の前述の体験は特殊なものではなく、昔から誰もが世の中での不思議な体験や、人に伝えようのない様々な体験をしているのではないでしょうか。ただ、表現できず誰にも伝わらない体験は、人々に共有されないまま、記憶外に押しやられてゆく場合が多いと思われます。もちろん無意識には蓄えられて、その人の世界の一要素になっているのではないでしょうか。
不思議な体験とは異なりますが、誰でも何かに大きな感動を体験することがあります。感動が深ければ深いほど、その体験を言葉でそのまま伝えることは難しいものです。また、「言葉では言い表せない」物事、現象もよくあります。ただその感動の種類や深さは、その人の喜怒哀楽の表情などである程度察知可能ですし、体験者が詩や絵画等で表現して、単に伝えて経験化する以上に、元の体験を越えて人々に新たな感動を生むこともあり得ます。
宮沢賢治に「小岩井農場」という長い詩編があります。「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ」と始まります。体験はすべて一回限りです。普通は言葉に定着する暇もなく次の体験に移っていきます。賢治は小岩井農場への旅で、携帯したノートに一々の体験(賢治は心象と言っています)を速記しつつ言葉で定着する試みをしているようです。詩的な高揚と散文的な弛緩を繰り返しつつ、六百行ほどに亘る詩の最後は「雲はますます縮れてひかり わたくしはかつきりみちをまがる」で終わります。賢治の体験はそのままでは想像もつきませんが、詩として表現されて、私達に共有されます。ただし詩の言葉は独特で、曖昧にしか理解できない部分も多分に残されますが、そのためにかえって様々に想像することができ、多様な意味が生まれます。
不思議な説話
昔は、怪異・霊異・奇譚の類が今より多かったようです。そのような不思議なことの存在を許す場所がこの世に又人々の心に広がっていたということでしょう。
例えば、「日本霊異記」では薬師寺の僧景戒(きょうかい)により奈良時代から平安初期の、様々な不思議な説話が沢山集められています。各説話のほとんどは仏法の因果応報(悪行は悪い結果を、善行は良い結果を生む)の考えによって捉えられ説明されて、人々を啓蒙しています。上巻第十六は大和国の男の話です。「生命を殺すことを喜ぶ」この男が兎の皮をはいで野に放ったところ、「久しからぬ頃」ひどい皮膚病となり苦しんで「叫び号びて死にき。」、悪行の報いはすぐに現れる、「己をはかりて仁あるべし」、慈悲の心を持たねばならない、というものです。
中巻の第三十七話は、因果応報とは異なりますが、仏殿が焼けた時そこに安置されていた観音菩薩の木像が仏殿から「二丈ばかり出でて、伏して損ふことなかりき。」という、仏像が自身で火難を逃れた説話です。目には見えなくとも仏の威力によるもので「此れ不思議の第一なり。」なのです。
延暦六年(七八七年、萬葉集と同時代です)の下巻序には「既に末劫(末法の世)に入りぬ 何ぞ(善行を)つとめざらむ」とあります。世に仏法の大切さが忘れられてきている。だから世には悪行がはびこり無残な結末を生じて世は廃れる。因果の理は明白なのだから世の人々は善行に努めるべき、とされます。景戒の信じてやまない因果応報の理が、世の中を啓蒙すべき自明な価値基準になっています。
近代にも柳田国男の「遠野物語」(佐々木鏡石氏よりの聞き書き)や「山の人生」には東北の山村又地方の山々での様々な奇談を主とする説話が集められています。前者の十七には「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。・・」とあり、意外に現代に近い話です。価値判断を加えずに記されています。
「山の人生」には、不思議な話の一つの型として神隠しをめぐる記述があります。「村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分けてこの類の神隠しが頻繁で、哀れなることには隠された者の半数は、永遠に還って来なかった。・・伊豆の松崎で十何年前にあったのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立っているのを見つけだした。そこはもう何度となく、捜す者が通行したはずだのにと、のちのちまで土地の人が不思議にした。」そして、「我々の祖先たちは、むしろ怜悧にしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。」 けれども、「各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには何一つとして一致した点がない。・・その少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかったのである。」とも記しています。
著者は民俗の不思議な説話をできる限り残し、人々が忘れないことの重要性を説いています。民話も日本の文化や歴史を構成する重要部分との思いがあります。そして遠野物語の序に当たる部分に「要するにこの書は現在の事実なり。」と記し、不思議な説話を話の真偽によってではなく、民俗の中に在る一つの事実と捉えるのです。
不思議の受け取り方
以上のような世の中の不思議を私達はどのように受け取っているのでしょうか。古代の景戒は様々な不思議な話を、因果応報という仏僧として当然な価値観によって受け取りました。柳田国男は学問的な民話の収集に留意しつつ価値判断を下さずそのまま受け取っています。
現代には二極があるように思います。一つは合理的な受け取り方で、不思議を合理的或いは科学的に説明できれば真、説明できなければ妄想か作り話だろうとしてその存在を疑問視するというもの、また少し穏当に説明できるまでは不思議の存在を留保する方法。もう一つは伝統的な受け取り方で、不思議をそのまま一つの出来事として、そんなこともあるんだねと、曖昧にでも認める受け取り方です。もちろん場合によって、その二つの方法を使い分けているのが現実かもしれません。
合理的な受け取り方
私達が世界を感受し把握する仕方は、普通は私達にある程度共通に内在化されている言葉、考え方、価値観等に依っています。それが暗黙の価値基準になっています。今は誰もが、この時代の情報化によって普及一般化している科学的で合理的な考え方を良しとする中で生まれ育ち、その考え方を一つの価値観としてある程度は内在化していると思われます。物事の現代的な明白さは科学的合理的裏付によるものとされます。エビデンスが真実の証明書になっています。何事にも因果の合理的説明を求めるのは当然かもしれません。合理的説明ができないと真実ではないとされがちです。
この世界は合理的に説明可能だということは、この世界は合理的にできているとする考え方と言えます。けれども、例えばこの世界に在る人の生と死の意味などは人の非合理的な部分を多分に含んでいると考えられます。社会科学や人文科学がその曖昧な(人の多様な意味の世界)部分を研究していますが、この現代でも、合理的な世界は私達の世界の半面だと思えます。
伝統的な受け取り方
以前には、いわゆる合理的な考え方は今のように一般化していなかったはずです。人々はこの世の不思議さをそのまま受け入れ、世界を不可思議をも含んだもの、割り切れない曖昧なものとして把握していたのではないでしょうか。それは以前の共同的な実生活から生まれてきた考え方で、世界の成り立ちに人の不可思議部分をも含めた柔軟な世界観だったという気がします。そこでは死という個々の不在も、不可思議なしかしこの世の大事な一存在として(みたま、たましい等として) 私達の世界に含められ、諸行事のなかで又毎日の生活の中で頻繁にこの世で交流してきました。お盆等に見られるように、このような伝統は過去形ではなく現在も続いています。合理的世界とは異なった伝統的な生活世界があります。
合理的世界には科学的に裏付けられた真実があるわけですが、それとは別に、伝統的な生活世界にもその中で生きる一人一人の多様な真実があると思います。前者の真実は一つに収斂する真実が想定されています。後者は一人一人が生きていく上で、自分を支えている基本的なもの、自分が体験してきた物事(事実)の集積のことを言っています。
人はある時代にある文化のもとに生まれ、幼少期は親子、家族、親族、隣近所、保育園などの共同の場で育まれます。その共同体の言葉や価値観を自身の感受性によって内在化させ、それを基礎として生を積重ねて行きます。そうする内にその人の中に醸成されるもの、一生に亘って自分の基礎を支えるものを、その人にとっての真実と言えると思います。それぞれの時代の、それぞれの地域の、また個々の真実があり、その成り立ちから言って、個々の真実は多くの部分が共同体の中で共有されていると言えます。里帰り、故郷、郷里といった言葉に含まれる何とも言えない懐かしさは、きっとその人の真実がそこに負っているからでしょう。そこで成り立った「私」は、自身の真実を羅針盤として行動し想う毎日を生きています。
日本の自然観
現代の自然概念、ネイチャーは日本の伝統にはなかったもので、日本語の元々の自然(じねん)は自ずからそうあること、という対象物としての自然(しぜん)とは異なった意味を持っていました。私達の伝統的な自然観は、自然の現象を人と切り離された対象としてその因果を科学的に説明しようとするものではありません。
科学にとって「もの」と言えば物体や対象を指しますが、日本語の「もの」は物体を始め、物事(物好き・物のあはれ)、人(大物・堅物等)、心を曖昧化する接頭語にもなり(物憂い・物悲しい等)、さらに古くから霊や魔(物憑き・物の怪等)をも表すなど、実に広い意味を持っています。「思い」は凝らせますが「物思い」は焦点を曖昧にします。日本語の「もの」は対象としてよりも、それ以外に使われる場合が多いようです。私達の世界は先ず日本語文化の世界ですので、不可思議な体験談も受け入れやすい曖昧さという下地が今も広がっているのではと思われます。ただ私達が物事を合理的に考える際には、曖昧さを含んだ文化的背景との葛藤やそれなりの困難が伴うのかもしれません。
日本の神話によれば、神は創造主ではなく、混沌の世界が天と地に分かれたとき、天に神が「じねん」に成ったのです。天地を合わせて大きな自然と言えば、神や人も大きな自然に含まれます。さらに山や海等々のそれぞれの自然には神々が宿る、先ず自然があってその中で神々の生存が可能となります。また神々は自然の中で自然を司っているということから、自然は神々と一体とされ、同一視されることもある、というのが自然の伝統的な捉え方のようです。考えてみれば古事記のこの神話も、世界の誕生という不思議について語ったもので、私達の先祖はそう考えたということです。私達はその真偽ではなく、そう考えられたという事実を大切にして、伝統的な世界観として今に伝えています。
森や山や海に接して私達が体感するものには、直接意識しなくとも、そのような古来の自然観(またそれに関わる言葉の数々)の影響による感慨が生じているのかもしれません。もちろんそれぞれの国、民族にも伝統的で独特な自然の捉え方があるでしょう。その差異を考慮しない一般化、グローバル化には無理があると思えます。
自然現象も実は人が体験して初めて把握されるのですから、本来は人抜きの現象はないと考えられます。人には非合理な側面がありますので、今の私達が合理で捉えている自然現象にも、実は非合理部分が入り込んでいるはずです。世の中の不思議や非合理をも包み込み、その存在を広く認める世界観は曖昧でも、その意味で正統性を持っているのではと思えます。
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